皆さん、こんにちは。エンドルフィンズ代表の田上です。
大体周りからは「タノさん」と呼ばれているので、気兼ねなくタノさんと呼んでください。
この記事では、私の生い立ちと、成長の過程でターニングポイントだった出来事を纏めていきたいと思います。
第一弾は、幼少期から中学で初めて経験する挫折までです。
目次
ガキ大将だった幼少期

私は、1987年5月20日に福岡県で生まれました。
生まれた時の体重は4,448グラムの超巨大児だったそうで、お腹から出てくる時に大きすぎて自分の鎖骨を折って出てきたそうです。笑
家族構成は、両親と3歳上の兄がいます。特に同性の兄弟がいる人は共感できると思いますが、私も兄との比較に悩み、コンプレックスを抱えながら青春時代を過ごしました。
特に私の兄は「イケメン」「めっちゃ頭がいい」「バスケ上手い」「身長高い」と隙なしです。この辺りは後述していければなと思います。
生まれた時から巨大児だったこともあり、幼少期から体が大きく、ガキ大将キャラに育っていきました。幼稚園に入園してからはサッカーにのめり込むようなとても活発な子どもだったと記憶しています。
小学校で兄の影響でバスケットに出会う
小学生に上がってから、兄の影響でバスケットを始めました。
そこそこ運動の才能があったことと、指導者に恵まれたこともあり、バスケットはどんどん上達していきました。
この頃の性格としては、めちゃくちゃ負けず嫌いで、練習中でも試合に負けると悔し泣きするような子どもでした。しかもかなりセルフィッシュな性格をしていて、「チームのメンバーは自分が5人いればいいのに」と思っていたのを覚えています。ただし、本番の試合は出場するのが嫌で、いつも土日になるのが憂鬱だったのを覚えています。(バスケの試合は大体土日に開催されるため)
ミニバスのチームはかなり強い学校で、一個上の代では全国優勝をしました。我々の代は確か県大会で負けて全国大会には出られなかったと記憶しています。
また、この頃から大人がどういう振る舞いをすれば喜ぶかを大体把握していて、行動するようなマセたガキだったと思います。
兄との比較に苦しんだ中学時代入学
中学は、特に3つ上の兄との比較に苦しんだ時期でした。
3つ上ということは、兄が中学を卒業した入れ替わりで私が入学することになります。担任の先生方は、兄の世代を見てきた方達がローテーションで私の世代の担任になることになり、必然的に兄と比較される環境にありました。
兄は上述したように、バスケも頭もルックスも良く、バスケでは中学時代に県選抜に選ばれ、県有数の強豪校である大濠高校に進学しました。また、学校の成績もトップレベルで良かったです。今でも覚えているのが、中学の通知表で「3」の科目があり、親に通知表を見せたところ「自分の子供で3を見たのは初めてだ」と言われました。笑
兄は、かなりモテていたらしく、兄の後輩にあたる私が入学した時点の中学3年生の女子たちが「田上先輩の弟が入学したらしい」と教室の外まで私を見にきていたくらいです。(←そして私を見て落胆される始末。笑)
剣道部へ入部、バスケ部へ舞い戻るも挫折を経験する
中学へ上がってすぐに、剣道部へ入部しました。理由は“個人競技”がしたかったからです。私のセルフィッシュな性格からこのような判断をしていました。
入部して数ヶ月経った公式戦の県大会の決勝を見て、こんなレベルの高い人たちがいるんだということを目の当たりにした私は、バスケの方が自分の優位性を活かせると思い、中学1年生の冬ごろにバスケ部へ舞い戻りました。
バスケ部に戻ったものの、ここで人生初めての大きな挫折を経験します。
上述したように、兄は福岡県選抜に選ばれそのまま大濠高校に進みました。一方で、私は県選抜のセレクションには呼ばれたのですが、そこで落選してしまいました。
この時は流石にかなり凹みましたし、周りの目が気になっていたことを覚えています。それもあってかバスケの調子も落ちて、中学の引退試合ではレギュラーであったのにも関わらず2点しか取れない体たらくでした。
このままバスケを続けても、兄と比較され続ける人生は目に見えていたので、高校ではバスケを本気で続けずに、頭の良い“進学校”に進学しようと決意し、福岡でTop3に入る進学校の「筑紫丘高校」に進学したのでした。
続きはまた別の記事で。