ゴールデンウィーク中に歩きながらメタバースについて勝手に思いが巡ったので、現時点での考えをまとめてみました。
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中二病の人って素敵だな。
自分の中に、宇宙を持っているわけだから。
中二病は現実逃避のように捉えられることも少なくないだろうけど、所詮、現実なんて曖昧で流動的なものだから、そんなんに真剣に現実と言われる世界のことなんて考えなくていい。
むしろ、技術的に、メタバースが構築されて、その上ではアイデンティティを棲み分けて、仮想空間という宇宙にも見を投じられるようになる。
本当の分人主義が成立する技術的条件(主にソフトウェア条件)が整いつつある。
メタバースでは、現実世界での五感の制約から解放されて、自由になるという怖い事態も発生する。
自由というのは、文字通り、自らに由ること。
つまり、自分の評価が、本質的な価値に基づいて評価される、本当の自由市場が成立される。
その世界では、例えば現実世界で容姿の端正さを売りにして差別化していた人の、その差別化ロジックが通用しなくなる。
中二病の人は、正直、その思考(他の人からすると「あいつどの世界に頭回してるんだ?」と思われるような思考)をもっと強めることが、生存戦略にもなり得る。
なぜなら、自分の世界観を推し進めて解像度を上げることが、世界を作ることの技術として発揮されるからだ。
オタクバンザイ。
また、自由を別野角度から捉えると、ある世界で自分が生きるかどうかも選べるようになる。
生きるかどうか、というのは、自分のアカウントを削除することで死も選べるということ。
思い返すと、これって世界が「男子校化」するということなのかもしれない。
私は慶應義塾高等学校という男子校にいたが、その時の雰囲気に近い感じにもなるんじゃないかと思う。
具体的には、お互いがお互いに干渉せず、それぞれがそれぞれの世界で普段を生き、時々一斉に集う。
そこには、協調圧力がなく、自分と同じようだけど少し違う世界観を持っていて、自分の生活にスパイスになることを時々言い合えるような、仲間がいる世界。
私であれば、愛する数学をともに探索できるような仲間と、倫理・哲学・人間関係についてフラットに議論し会えるような仲間が、幸運にも見つかった。
もちろん、すべての男子校が上記のような空間ではないだろうが、慶應高校よりもペーパーテスト的地頭が優れている人が多いであろう、灘高校とかの雰囲気を伝え聞いても、そんな感じの印象。(尾原 和啓さんがお話されているPodcastとかを聞いていての印象。)
でも改めて思い返すと、人が見えていない世界を見えている人(もしくは見えていると勘違いしている人)が世界を作ってきたということが歴史的にあるから、その事象が繰り返されているだけかもですね。
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ちょっとまとまりに欠けるんですが、『古見さんは、コミュ症です。』 の「中々さん」を見ていてこんなことを考えました。
以上。
#元数学オタク
#メタバース
#まずはブロックチェーンとかじゃなくて3DCG技術としてメタバースと捉えている派